長野幸浩の日記『We Believe』

思いついたことを気楽に

食事の原風景

 『食事の原風景』というキーワードは子どもの頃の記憶を思い出させてくれた。家庭教育についての研修会に参加したとき講師の先生が語った言葉だ。
 私にとっての食事の原風景とは大勢で食卓を囲んでいる場面だ。私が幼い頃、会社の二階に住み込みで働いていた若い社員の皆さんがいた。たぶん四人ほど住み込みをしていた様に記憶している。
 朝の食卓は戦場のようだった。おふくろは家族の食事の他に四人分の食事を毎日余計につくっていた。私も朝起きると住み込みで働いている社員の皆さんが食卓に着く前に食事をしていた様に記憶している。しかし、朝起きるのが遅くなると一緒に食事をすることになり、そんな事の方が多かったように思う。
 当時は電子ジャーなど無い時代だ。大きなガス釜で炊いたご飯を、大きなお櫃に移し変え、お櫃布団と称する座布団の四倍はあろうかという、綿が詰められた保温布団にお櫃を包んでいた。
 だから今のようにジャーの中のご飯が、時間が経つと黄色くなる事などなかった。最後はお櫃に水を張り、おばあちゃんがお櫃に付いたご飯を手でさらって食べていた。私はその横でおばあちゃんがさらってくれる水にふやけた米粒を食べさせてもらうのがとても楽しみだった。
 私たちは今の子どもたちにどんな食事の原風景を残してあげられるのだろう。ちょっと考え込んでしまった。食育とは緑色、黄色、赤色の野菜の栄養価やビタミン、ミネラルのこと等、数字やスキルを学ぶだけではないと思う。
 野菜の土の匂い、秋の田畑の風景、季節が変わると感じる季節の皮膚感覚が食事の原風景として子ども達の記憶の深くにとどまり、大人になった時、あるきっかけでふとそれを思い出すことができたらそれも、私たちが残してあげられる食育のひとつではないのだろうか。
 企業は生産性を向上させ、生き残り、成長する為に効率を追い求めるが、それが家庭に持ち込まれ、子どもたちが『ホッ』と出来る場所が遠ざからないことを祈るばかりである。
にほんブログ村 経営ブログ オーナー社長へ