長野幸浩の日記『We Believe』

思いついたことを気楽に

64回目の終戦記念日

 昨年の今日、63回目の終戦記念日というタイトルで私はブログを記している。毎年終戦の日を迎えると当時、大儀の下に戦って散っていった若者のことを思う。
 この時期は太平洋戦争の記憶を今の世代に伝えようと、様々な番組が特集される。戦争を体験した方々はかなりの高齢になっておられ、体験者から直接話を聞くことはしばらくすると出来なくなってしまうだろう。
 私たちの現在の営みは平和の下で初めて現実になる。あの時代に生まれた先人のお陰で今の私たちの生活がある。戦争は二度とおこしてはならない。

 先日この写真(焼き場に立つ少年)の存在を知り、私は衝撃を受けた。この少年の気持ちを思うと涙があふれて来た。きっと私たちには想像することが出来ないだろう。
 これを見ると何もいえなくなる。どんな言葉も安っぽくなってしまう。
 アメリカ軍爆撃調査団のジョー・オダネル軍曹がこの写真を撮影した。この後は彼の文章を引用させてもらおうと思う。
 『佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
 荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
 10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
 しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
 少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
 少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
 まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
 その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
 夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。』
 私たちは、こんなことを子どもたちに二度と経験させてはならない。
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