長野幸浩の日記『We Believe』

思いついたことを気楽に

てんびんの詩

 もう、何年前になるだろうか。東京で仕事をしている時、どんな経緯だったか思い出せないが一本のビデオを見たことがある。
 それは『てんびんの詩』というビデオだった。内容だけが強烈に記憶に残っており、今日、届けられた『さくらのノート』の中にこの言葉を見つけ、突然思い出した。
 内容は近江商人の家に生まれた『大作』少年が小学校を卒業した日に、父親から風呂敷に包まれた鍋のふたを贈られる。そして、父親はこの鍋のふたを売ってくるように命じるのである。
 鍋のふたを売ることが出来なければ、家業を継ぐことは出来ないと言われ、『大作』少年は行商に出かける。
 『大作』はそれを簡単に考えていたのだろう。最初は、店に出入りする者の家を回り、親の威光を嵩にきて、買ってもらって当然と言う態度で商いをしようとするが、誰も買ってはくれない。
 次は見知らぬ家を訪ねるが今度は口も聞いてくれず、目も合わせてはくれない。『大作』は何故こんな事をさせるのかと親を恨み、何故買ってくれないのかと人を恨んだ。
 ある時は農家の老夫婦を泣き落として、騙して売ろうとするが、そんなことは直ぐに見抜かれてしまい、さらに反感を買うことになる。
 『大作』は途方にくれてしまう。そして、ある時、農家の井戸の洗い場に浮いている鍋を見つけてこう思うのである。『この鍋蓋が無くなれば困って買ってくれるかもしれない・・』
 しかし、『大作』はこの鍋蓋も自分のように、苦労して売った人がいるかもしれない、と思うと、その鍋を一生懸命洗い始める。
 するとその農家の女が『人の家の鍋をなんで洗っているのか、お前はどこの者か』と問いただされ、『大作』は鍋蓋を売って来いと言われたこと、親の威光を嵩にきていたこと、人を騙して売ろうとしたことなど正直に話すと、その農家の女は鍋蓋をひとつ買ってくれ、そして『大作』が自分の子と同じ、十三歳と知って、近所の人に鍋蓋を一緒に売ってくれたのである。
 鍋蓋が初めて売れたとき、『大作』は父親が『売ればわかる』と言った言葉の意味を理解する。
 商売と言うのは売る者と買う者の心が通じ合って初めて『もの』が売れること、そして人の道に外れて商いは出来ないことを知るのである。
 今では商売の形態が変わり、対面販売の他にWEBでの通信販売の割合がかなり増えてきているが、基本は同じである。お客さまのために、努力をしているかどうかを、お客様は敏感に感じるものである。
 何故、突然この『てんびんの詩』という言葉が目に触れ、このことを思い出すことになったのかはわからないが、今の日本人が忘れかけている『惻隠の心』が、この世の中に大切であることを思い出させてくれる。
 数値化できないものまで数値化し、それを正しいかのごとく振り回す世の中に、今、大切なのは『惻隠』という言葉なのかも知れない。
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