長野幸浩の日記『We Believe』

思いついたことを気楽に

教科書の厚さは将来差になって現れる。

 今日は会社に東京書籍の方々がお越しになられた。教育関連の冊子に執筆をお願いしたいとの事であった。この冊子は年に3回ほど発行されており、学校の先生に配布されているようである。
 保護者が執筆する部分は、各県のPTAの会長が持ち回りで書いている様で、今回は石川県が担当のようである。
 教育のこと、教科書のことなど色々、お話をさせて頂いた。教科書の業界もある意味、私たちの業界に似ているところがあるな、と感じた。
 教科書の検定制度は今の現代社会にはもう仕組みとしてなじまなくなって来ている様に感じる。以前、石原多賀子前教育長を講師としてお招きした時、中国との教育の考え方に大きな温度差を感じたことを思い出す。
 中国の大連から来られた先生方は日本の教科書の質の高さに驚いておられたが、内容の薄さにさらに驚いておられたと聞く。日本人が一年間で学ぶ量を中国では一ヶ月で学んでいると言っても過言ではないだろう。
 勉強の量の違いは将来必ず差になって現れてくる。小学校までの頭の柔らかい内にどれだけの知識を詰め込めるかが勝負である。知恵というのは知識を組み立てることによって出来上がる。
 即ち、どれだけ組み立てる為の知識を持っているかで大きく差が出るのである。自らが考えるのはその後でも十分であると私は考えている。
 教科書はその内容と量(教科書のページ数まで決まっているのは如何なものか)が大切であり、カラーのページを増やす事により、見やすくする事が目的ではないのである。
 先ず、正すべきは教育指導要領と教科書検定制度そして教科書を採択する委員の認識である。
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