本質を見る、視る、観る
子供たちを育てていく事については学校、家庭、地域社会の三つ巴で協力して行う必要がある事は皆さん共通の認識をお持ちだろう。特に家庭教育は全ての根幹をなしている。学校現場で様々な問題が発生するたびに矢面に立つのは学校であり、教師なのだがそれだけではないと私は思っている。
私たち保護者が苦情を言う前に先ずは原因自分論で考えてみる必要がある。様々な問題が現象として浮かび上がるが、表面上の現象を捉えて議論しても問題の本質は解決しない。一人の教師の指導力を問題にしても本当の解決には至らないのだ。
先ずは、職場の風土に目を向ける必要があるだろう。
先生同士がディスカッションをしながら問題点を可視化させる事が出来るような雰囲気があるか、
お互いがそれは、自分の仕事ではないと思っていないか、
他人が困っている事を見て見ぬふりをしていないか、
もっと基本的な事を言えば、ゴミが落ちていれば拾うか、
汚れている所があれば掃除しているか、
花瓶の花が枯れていれば処理できているか、
コピー用紙が無くなっても誰も関心が無くはないか、
それらをやっていても、やっているのは一部の人でその仕事はいつの間にかその人の仕事にすり変わっていないか、
また、その他の人達はそれをやらしておけばよいと思っていないか、
こんな事と思うかもしれないがそれが職場の風土を表しているといっても過言ではない。一人の教師の指導力を問うだけではなく、その職場の背景に目を向けると様々なものが見えてくる。問題の本質は視ようとしなければ視る事は難しい。
本質がどこにあるのかを視る事に学校現場の改善の糸口があるのだ。