長野幸浩の日記『We Believe』

思いついたことを気楽に

当たり前の基準

 東日本大震災の支援で、宮城県PTA連合会に行ったのは震災発生後の一ヶ月後だった。
 当時、宮城県PTA連合会の江刺事務局長が『今回の津波で年老いた両親を亡くしたが、葬儀を出す事が出来ただけで幸せです』と語った言葉が、今でも忘れられない。
 震災は幸せの基準さえ変えてしまったのだ。
 人が当たり前と思っている事は、人によって大きく違うものだ。特に当たり前のレベルが高い人は、人に対する当たり前の要求も高い。
 毎日、当たり前の様に食事が出来る事、当たり前の様に学校に通える事、当たり前の様に欲しいモノが買える事、当たり前の様に家族がいる事、当たり前の様に仕事に行ける事、当たり前の様に喧嘩が出来る事・・・
 でも、当たり前だから何も思う事もない・・・そして、ちょっとでも自分の思う事が出来ない事があると、悲劇に感じてしまう。
 当たり前とは絶対的な感覚ではなく、相対的な感覚なのだ。自分が当たり前と思う事が出来なくなった時、当たり前が、当たり前ではない事に気づく・・・それが人間なのかも知れない。
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