長野幸浩の日記『We Believe』

思いついたことを気楽に

語り伝える・・

 1985年、イラン・イラク戦争の際、イラク大統領が四十八時間後にイラン上空の全ての航空機を撃墜すると世界に向け宣言した。その時イランには日本企業に勤める日本人とその家族215名が住んでいた。
 彼らは空港かへ向かい国外への脱出を試みたが航空機は満席で取り残されてしまう。各国はイランにいる自国民を救う為に専用機を飛ばしたが、日本は自衛隊の海外派遣不可の原則から自衛隊機の救助を得られなかっただけではなく、日本航空も安全を担保出来ない限りは専用機は飛ばせないという危機的な状況にあった。
 しかし、その時二機の航空機が空港に到着する。その航空機には『トルコ航空』と書かれていたのだ。そして、二機のトルコ航空機に日本人全員が搭乗し国外へ脱出する事ができたのである。その時イランにはこの時の日本人をはるかに上回るトルコ人が残される事になった。
 では、何故トルコ政府は日本人を優先して救助したのだろうか。
 1889年、オスマン帝国海軍の木造フリゲート艦『エルトゥールル号』が紀伊大島沖で座礁し500名以上の死者を出した。その時日本は献身的に乗組員を救助し、69名が生還する事ができた。又日本政府は手厚く彼らを援助した。
 その事実は今でもトルコの歴史教科書に掲載され語り継がれている。当時の駐日トルコ大使は『百年以上も前、わが国のエルトゥールル号遭難の時、日本から受けた恩を返しただけ』と語っている。
 この物語はリトアニア領事館の外交官だった杉原千畝ポーランドから逃れてきたユダヤ人のために日本政府の命令を無視し、命のビザを発給し、二十四年後に名誉を回復した時イスラエル政府から勲章を受けた事に似ている。
 『恩は石に刻み、かけた情けは水に流す』私たち日本人も多くの諸外国から援助を受けここまで来た。戦後の復興も自らの力だけで成し遂げたのではない。そんな歴史を語り継ぐ教育が今に日本には必要だとつくづく思うのである。
にほんブログ村 経営ブログ オーナー社長へ